【レポート】「こどもの哲学!?運動会?!」こどもの哲学を通して開催した未来の運動会 前編(愛知県犬山市 犬てつ)

みんなのてつがくCLAFA代表 安本志帆

畳の部屋で哲学対話をする子供たち

こどもと大人のてつがくじかん

 哲学対話ファシリテーター/コーディネーターの筆者が、「未来の運動会」を実践しました。
立て続けに2回もやりました。筆者がなぜ実践しようと思ったのか、なぜ2回実施したのか、どのような実践となったのか、について報告したいと思います。
前編では、対話の中でおこったこと、みえてきたことを中心に、後編では共創したもの、その過程で感じたことを中心に書きたいと思います。

 その前に・・・「犬てつ」の説明を簡単にさせてください。

 「犬てつ」とは、愛知県犬山市を中心に、子どもと大人が一緒に、自分とは違う意見を持つ他者との対話を通じ、湧き上がる様々な問いを引き受けながら立ち止まって考えてみる、「哲学対話」という営みをおこなう市民団体です。2017年に開始したこの実践で筆者は、哲学対話の進行役として関わっています。まだ日本で哲学対話の団体が少なかった頃から主催者のミナタニアキさんと一緒に手探りで取り組んできました。

 ちょうど活動開始から4年目となる2020年、私達の営みのドキュメントとしてLandschaftより『こどもと大人のてつがくじかん−てつがくするとはどういうことか?−』が出版されました。

なぜ未来の運動会?~違いは理解しあえるのか、多様性は認め合えるのか~

体育館で対話しスポーツをつくる子供たち

 「多様性を認めあおう、違いを理解しあおう」という言葉は聞かない日がないくらい国の問題としても重要性を増しています。とはいえ、筆者は、それらの言葉を簡単に口にはできないくらいの難しさを哲学対話中に感じてきました。なぜなら、包摂と軽々しく口にするには、下記の二点が看過されているように思われるからです。

 まず、第一に「違い」というものは、えてして衝突しやすいということがあります。そして第二に、「違い」として想定されているものは、既に了解されている事柄に過ぎないということ、つまり、私達は「想像を絶する見解や背景の<違いを持つ他者>の出現に用意がない」ということ、の二点が見過されていると思うのです。

 こうした問題に無頓着なまま、きれいごととして包摂を語る文脈の取り組みがほとんど(に筆者からは見えている)というなかで、「スポーツ共創」は、それらに真正面から向き合うことができるのではないかという希望を筆者は持ちました。なぜなら、「スポーツ共創」は、小さなこどもから大人まで年齢や性別、障害のあるなしに囚われずに、「共に創り、する」を小さな社会として実現できる場だからです。

 そのような経緯から私達は、みんなでつくる運動会という方法を通じて対話を社会実装させてみるという、とても大きなチャレンジをすることになったのです。

※「犬てつ 未来の運動会をもう一度」は、スポーツ庁 令和2年度「Sport in Life 推進プロジェクト(ターゲット横断的なスポーツ実施者の増加方策事業)」の調査対象事業です

オンラインとオフラインの合体。ハイブリッド型運動会を開催するまでの経緯

オンライン中継をするスタッフと子供たち

1、ハイブリッド型運動会とは?

「これから、“ 犬てつ・未来の運動会をもう一度 ”をはじめます!」

 新型コロナウィルスの感染拡大により緊急事態宣言が出されていた令和3年1月30日、小学6年生(令和2年度時点、以下同じ)の選手宣誓とともに、オンラインで愛知県犬山市と、山口県山口市を繋ぎ、ICT機器越しに「未来の運動会をもう一度」が始まりました。

 参加者は犬山市にある各々の自宅よりオンラインで、小学生と、保護者ら大人が17名が参加しました。山口市からはスタッフメンバーが、犬山市にいる参加者たちが快適にプレイできるよう、遠隔でテクニカル面でのサポートをおこないました。

 スタッフメンバーは、自宅から作業を担った2名の高校2年生と、山口市内にある市民工房「FabLab Yamaguchi」に集い現地からサポートをおこなった、福岡市の中学1年生と、この運動会のプランナーでもあり山口市内の高校3年生である廣田祐也さん。

2020年におこなわれた宮崎県小林市や愛知県犬山市での「未来の運動会」に参加した福岡市在住の小学1年生は、今回は山口市の「FabLab Yamaguchi」よりオンラインにて選手として参加しました。

2、ハイブリッド型運動会は「哲学対話を通して創る未来の運動会プロジェクト」の集大成?!

体育館で意見を出し合う子供たち
ファシリテーションする筆者

 このプロジェクトは、2020年6月からスタートしました。新型コロナウィルスで学校が休校になったタイミングですぐにオンライン会議サービスなどでの哲学対話を始めた犬てつでは、6月から「学校とは?」「運動会とはなにか?」など、学校でおこなわれる行事の「運動会」について、それがどのようなものであるのか、あたりまえの日常や常識を疑い、問い直す試みから始めました。そこからおよそ半年間、ひたすら、様々なことを考えました。

 「創るってなに?」「運動するとは?」「競技に勝ち負けは必要?」「みんなが楽しめる運動会ってどんなの?」「チームはわけるべき?」いろんなことを考え、未来とは何か、自分の身体はどこまでか、などの哲学的議論をへてついに、競技を創りはじめたのです。

ZOOMで哲学対話をしているようす

2020年
6月   オンライン哲学対話:「学校でみんなで学ぶ理由は何? その意味はあるのか?」
7月 オンライン哲学対話:「学校に行かないとどうなるの?」
8月 オンライン哲学対話:「運動会って何だろう?」
9月 オンライン哲学対話:未来の運動会にまつわるてつがく対話(1)
10月   オンライン哲学対話:未来の運動会にまつわるてつがく対話(2)
11月   オンライン哲学対話:未来の運動会にまつわるてつがく対話(3)
   遊びを創ろう 作戦会議
12月   未来の運動会をみんなでやってみよう
   未来の運動会本番


3、みんなで1つの難しさ

畳の部屋で対話し体を動かす子供たち

「運動会の競技をみんなで創る(共創する)とはどういうことなのだろう?」

 10月、私の最も興味のあるところへ差し掛かりました。参加者のこどもと大人に「みんなで1つの競技を創ってみようか」と提案しました。その日は和室に集まっていた参加者たちに、ここにあるもので、面白そうな競技を創ってみようと15分間、筆者は黙って観察することにしました。

 すると、「みんなで1つの・・・」と言ったはずなのに、一瞬で3〜4人のグループが4つほど立ち上がり、参加者たちはグループごとの競技を創り始めたのです。そこでは声の大きな子がグループを引っ張り他の子はそれに同意する形でさくさく進みます。

 グループの構成は、小さい子は小さい子同士、仲良しは仲良し同士、などのようです。普段、哲学対話に参加していないレギュラーメンバー以外の子は、少し居心地が悪そうにしているのを大人が配慮していました。ここで筆者に問いが生まれます。「一人の子が意見を出してそれ以外の子が同調するのが『共創する』ことなの?」と。

4、「おもしろそう」と「おもしろい」は大違い

 この時点で、気がついたことがもう一つありました。これは「絶対におもしろい!」と思って考えたことを実際にやってみたら、予想とは違っておもしろくなかったり(こうした経験みなさんにもありませんか?)、頭で想像したことが思い通りにいくことばかりではなく、こんなはずじゃなかったのに・・・ということが頻発するのです。

そこはプロのあそび屋さんのこども達。

 やってみてダメなら工夫して、またやってみて、そしてさらによくできそうなことを考えてまたやってみる、を繰り返していました。この一連の行為は「競技を創る」を為す上で「とても重要な要素かも?」とおぼろげに考えていたのでした。

5、ゴールを決めてそこを目指す?それとも行き着いた先がゴール?

 楽しく始まったプロジェクトでしたが、本番が近づくにつれ、みなに焦りが見え始めます。「これどこへ向かっていくの?」というモヤモヤが充満しはじめます。モヤモヤした時はみんなで対話です。

 「ゴールがないと時間配分がわからないから完成できない」という意見と「決めないことが犬てつらしさ。時間がきたところが完成でいいじゃないか」という意見にわかれます。

 参加者たちは、こどもも大人もなく「犬てつ らしさってなんだろう?」「完成するってどういう形になることだろう?」と本気で頭をひねりました。どちらも大事なことのように思えてしまう参加者たち。

 こども達はホワイトボードに落書きをして遊び出し、議論は暗礁に乗り上げたかのように思われたその時、「じゃじゃーん!」とこども達がホワイトボードをくるりとひっくりかえしました。

 ホワイトボードには「犬てつらしさって必要ある?」「はたして未来の運動会で犬てつであることって必要?」「犬てつ=決めない はルール?」「目標達成=達成?」「未来の運動会は犬てつの新しい一歩?」「さくさくとじっくりの違いは?」等、運動会のイラストと共にたくさんの問いが書かれてあったのです。

沢山の意見が書かれたホワイトボード

6、大人もびっくりのこどもの合意形成

 こども達の問いに驚きを隠せない大人たち。こども達の成長に目を細める大人の姿もありました。こども達が大人をひっぱる形で、「未来の運動会は、時間も気にしつつ、お客さんが楽しめそうなところまでは完成させよう」という目標に、みなが大きく頷く形で決められたのです。

 一度コンフリクトが生まれた議論でしたが、その後、クリティカルに問いかけあい、みんなのちょうどいい案を出せたのでした。筆者はわからないけど、これも「共創」に必要な要素なんじゃないかな?と思ったのでここに書いておきます。

7、フィジカルで「未来の運動会犬てつバージョン」を開催しました

体育館で未来の運動会を開催している様子

 2020年12月13日、愛知県犬山市内の屋内施設で、小1〜小6のこども15名と、保護者ら大人5名が参加する中、「未来の運動会」犬てつバージョンがおこなわれました(どのような競技が創られたのかについては別記事に書きたいと思います)。

 運動会の準備の期間中に、こども達から「ふりかえりはしたい」「その時間を運動会内にとってほしい!」という声があがっていました。実際には運動会の時にふりかえりの時間をとることはできず、日を改めてオンラインにてふりかえりをすることになったのです。

ふりかえりをやりました

1、共創するとはどういうことだろう?

「学校でも自分達で創る運動会がしたい」「とっても楽しかった」

「『決める』という新しいことに挑戦できて楽しかった」

「犬てつではいろんな意見を聞けるのがいい。今回はそれを一つに絞るのが嫌だった」

今回、少しの人達は、頭に浮かんだことがすぐに浮かぶから、先へ先へと進んじゃって、次々と早く決まっていくのが私はついていけないことがあった。次やるときはみんなのことを考えて進んでいけるといいなと思った。」

 1度目の「未来の運動会」犬てつバージョンを終え、12月26日、オンラインにて参加者と振り返りをおこなった時のこども達の言葉のいくつかです。こども達の感想は、一人ひとりが創ってプレイしてみて、感じたこと、わかったこと、さらに良くできそうなことを、それぞれの年齢や発達に応じた言葉で紡ぎだされていきました。

 通常2日で開催される未来の運動会を、半年間をかけたプロジェクトとしておこなった理由は、スポーツの「する」、「みる」、「ささえる」、に、新たに「つくる」を加えたスポーツ共創の「共創」とは一体なんなのか、どのようなプロセスをへてどのような状態になり、その結果どうなるのか、それを探求したかったからです。

2、そもそも共創は可能なの?

 このプロジェクト中に、こども達の涙をたくさん見ることになりました。小学校高学年の子が泣くというのはそれなりに場に緊張が走ります。

 こどもたちは3年以上、哲学対話の場で、それぞれの違いを感じたり、他者を尊重するとはどういうことかを考えてきました。だから、自分の考えや誰かの考えによって決まったことが「みんな」の良いことになる為には相当困難を極めるということを経験的に知っていました。

 そのこども達が悩んだ最大のポイントは、「考える」の先にある「決める」という行為についてでした。プロジェクトを実行するためにはいっぱい決めることがありました。他者と「つくる」為には「決める」ことは避けて通れなかったのです。それに、「決める」という行為は、満場一致でない限り、せっかく考えられた誰かの意見が採用されないことを意味してしまうのです。この厳しさや難しさをこども達はたくさん体験することになったのです。

3、決めることは誰かが我慢すること?

 「決める」ことがなかなかできなかったこども達。声の大きな子の意見に従ったり、他者の意見を尊重しようとしたりすると、自分が一生懸命考えたことはなかったことになってしまいました。一生懸命相手の意見を聞こうとしながらも押し問答が続きました。

 上記のようにAという案とBという案が出たとき、どうするかと知恵を絞りCという代替案がでた時もありました。でもいつもそううまくはいきません。「多数決」という決め方がありますが、「犬てつ」の人達は、少数派の人の気持ちを考え、その方法を選ばないことを選ぶことが多いのですが、こどもの皆さんは、いつまでも決まらないと飽きてどこかへ行ってしまったり、どうしてよいのかわからず、自分の気持ちがどんどん萎えてきてしまう子がでてきたりして、場の空気はみるみるうちに悪くなりました。

ものすごく嫌な空気です。

 「犬てつ」の対話の場は、しばしばこのような、ものすごく重苦しい空気に包まれるのも通常なのですが、今回は、その空気にいたたまれなくなったであろう子がついに自分の意見を手放したのでした。筆者から見ると「やけくそ」に見えました。きっと内心は穏やかではなかったのだろう思える態度でした。その周りにいる、大多数の「どちらにも合わせられる」という意見をもつ人達も、その空気のようなものを感じ、本当にこの状況で決まりかけている意見に合わせてもいいのかな?と迷っているようにも見えました。

4、これが共創なのだとわかった1つのこと

ふりかえりをZOOMで行う様子

今回、筆者なりに「スポーツ共創」とは何か、について理解したことがあります。

 みんなで1つのものを創るのはとても難しいけどなんだか楽しいということと、仮に声の大きな人が意見を出したとして、その意見に多数決で決定がなされたとしても、「スポーツ共創」には続きがあるということです。

 「続き」というのは、自分の意見が採用されなかった人にとって、おもしろくないアイディアだったとしても、先に書いたようにひとまずはやってみることになるのですが、きっと最初のアイディア通りにはいきません。そこからその競技は、「アイディアを出した人のもの」から、「そこにいる人達のもの」に変容し始めたように感じたのです。

 その証拠に、すったもんだしながら創った競技がおこなわれている最中、自分の考えた意見を手放さなければならならないように見えた子も、そうでなかった子と同じように自分達の創った競技を嬉しそうに眺める姿が見られたり、誇らしげに自分達の創った競技の裏話などをする様子がみられました。最初が多少どうであれ、共に創るということは、同時に共に創られてもいて、そこからこぼれ落ちる参加者が出ないのはそのあたりにヒントがあるのかな?と考察した次第です。

5、なぜ哲学対話を通した未来の運動会なのか

体育館におかれたイベントの看板とホワイトボード

 筆者は、哲学対話に限らず、議論教育を探求しているのですが、その中でも熟議の可能性を感じています。ここでいう熟議とは議論教育の場で実際におこる可能性のある熟議民主主義のことです。熟議民主主義とは、意見を言いっ放し聞きっぱなしにするのではなく、その意見の背景にある様々な理由や信念を想像したり共有すること、相手を尊重し想像すること、批判的に聞くことで、どのような人も排除せずによりよい社会を目指すことだと筆者は思っています。

 それを達成するためのプロセスや態度が、未来の運動会には凝縮されていて、筆者が興味を持つ哲学対話の「熟議」というものにチャレンジできるのではないかと思ったのがきっかけです。結果は、予測を大きく上回るほど、哲学的に問うことの先にある「決める」ということの難しさを超えるものを「共創」に見た気がしたのと、運動会という営みを通して「決める」を社会実装する経験は、今の日本の民主主義のあり方を問い直すことにもつながっているような・・・気がした次第です。

 次の記事では、「共に創る」とは一体どういうことだったのか、アフリカのザンビアの村々に、出産施設を住民参加型で建設するという「ザンビアのマタニティハウス」プロジェクトや、愛知トリエンナーレ、段ボールによる『アート・プレイグラウンド あそぶ PLAY』を手掛けられた建築家 遠藤幹子さんから学んだあれこれも盛り込みながら報告したいと思います。

できあがった種目

ぴったりマウス

 スマホの振動やパソコンのマウスのクリックの数で競い合う「ぴったりマウス」というゲームを創りました。そこには、「違いを認め合うとはどういうことなのか」を問い続けてきたからこそできたともいえる象徴的な一幕がありました。

スマホの振動や、マウスのクリック数を競い合うという競技をおこなったところ、携帯のスペックの違いや、使っているデバイス、マウスの違いによって、結果に大きな差ができてしまうという事態に陥りました。そもそもそのゲームに参加自体ができないという事態もおこりました。そもそもそのゲームに参加自体ができないという事態もおこりました。

 スペックや環境の違いによって、プレイヤー個人の「能力」とは関係のないところでできる「差」は、未来における社会格差の中心にさえなってくる「違い」なのではないでしょうか。私達は「みんな」が楽しめる競技とはどのようなものであるのか、「みんな」とは誰のことなのか、を半年間のプロジェクトを通して考えてきました。それをふまえ、「情報」による「格差」をどのように対等で楽しい競技にするのか、の真価が問われた瞬間でした。

その結果、出されたアイディアは、数の多さを競い合うのではなく、最初から決められた数に、各々が合わせにいくという競技でした。

 「ぴったりマウス」は、どのようなデバイスの人も、どのようなスキルの人も簡単に対等に楽しめ、決められた数字に近づいてくるとチームメイトがお互いの調子を読み合うような、日本人固有の文化(同調圧力)を逆手にとったともいえる面白さが加わって、画面にむかってキャーキャーとつい大きな声が出てしまうくらいに盛り上がる競技ができあがりました。その他の競技については後編でご紹介できたらと思います。


いますぐスポーツ共創をやってみよう!

workbook
スポーツ共創ワークブック ダウンロード(PDF 23MB)

安本プロフィール

安本志帆

こども哲学おとな哲学アーダコーダ、カフェフィロ、未来の体育を構想するプロジェクトの人としても様々な哲学対話の活動に参画している。

CLAFA対話のアトリエ、高浜市やきものの里かわら美術館、全国の小中高大学で外部講師として哲学対話のファシリテーターを務めるほか、異業種間の哲学対話の企画運営や当事者研究、哲学対話の個人セッション(哲学相談)もおこなう。教育学、臨床哲学、現象学を通し、哲学対話実践における自らの問いを探求し続けている。

共著書に『こどもと大人のてつがくじかん』( LAND SCHAFT)