【レポート】「こどもの哲学!?運動会?!」こどもの哲学を通して開催した未来の運動会 後編(愛知県犬山市 犬てつ) 〜主催者安本志帆は、なぜ行い/どう考えたのか〜
みんなのてつがくCLAFA代表 安本志帆
未来の運動会を企画する前のちょっとした違和感。ディベロップレイってなに?
〜 開発(ディベロップ)と実践(プレイ)が融合した「ディベロップレイ」〜
スポーツ共創を説明する時に必ず語られる「ディベロップレイ」という言葉があります。
ディベロップレイの語源は、ディベロップ(開発する・つくる)とプレイ(する・あそぶ・試す)を合わせた造語なんだそう。
私は何度か全国の未来の運動会に参加してディベロップレイを体験しました。
そのどれもが楽しかったのだけど、でも、釈然としない違和感がほんの少しありました。
私はその釈然としなさについて考えたく、「ディベロップレイってなに?」を探したくなったのです。
私が今まで参加したディベロップレイはつくられたものと言えたのだろうか?
『つくる』とはどういうことなのだろう。同じく『開発』も。
どのような状態になったら「つくった」「開発した」のだろう。
例えば・・・
綱引きの綱を引っ張らずに編んでみる。
今までと少し違う用具の使い方をすれば開発?競技をつくる?
その用具の元々与えられし役割を少し違えてみることが「この用具の新しい使い方」という意味で「開発する」「つくる」と言えるのだとしたら、新しい役割をその用具に与えることが「する」や「遊ぶ」や「試す」になるの?
少なくともその時点での私は、「そうじゃなさそう」と思いたかったのです。
言うほど簡単じゃない
ディベロップレイで求められている「する」や「あそぶ」は、運動会という特性上、「競技」という条件がつきます。そうあることが「する・あそぶ」の輪郭を見えやすくはするのだけど、それが意外に厳しい。
その条件下で「する・あそぶ」を遂行するためには、「安全性」であったり、「ゲーム性」であったり、「やって楽しいだけでなく見てもたのしい」という要素が必要になるのです。
それらを見事にクリアしないことには、ディベロップレイはできない。
そのようなことを簡単に数時間でパッとできるのだろうか?と自問すると私はこのように答えます。
「無理です」と。
とりあえず「ディベロップメント」
無理をせず、身の丈に合わせてじっくり考えよう。
まずは「ディベロップ」の部分から見据えたいと思いました。
「プレイ」という概念がまださっぱり見えてこないので、一旦我慢して脇におきました。
ディベロップメントの中の「つくる」という概念について、文科省が発行する教育指導要領には、
“想像的に表現することの他に、それを形にするだけの材料や用具を使う「技能」が必要だ”
と記載されています。
「つくる」ことについて考えようとする時、私にはこども達が身近にある廃材等で遊び慣れていることが連想されました。しかしそれは「つくる」とも言えそうなものの、「あそぶ」とも言えそうでした。
とはいえ、私は「つくる」と「あそぶ」は全く同じでもなさそうだという気もしていたのでした。
そもそも、こども達が道具を適切に使い、材料を工夫するなどという高等な技能を持って「つくる」なり「あそぶ」なりしているのだろうかというところも実のところよくわからなかったのです。
技能がない状態で「つくる」ということを考えるなら、あるところまでは「あそび」として楽しめそうだと想像はできました。でも、その「あそび」にスポーツ共創のような様々な条件(制約)が課された時、それは引き続き、あそびのように純粋に楽しめるものであり続けられるのかな?と思ったのです。
「ディベロップレイ」の「プレイ」に「あそぶ」という概念が含まれている以上、「あそんでいる」或いは「あそび」であり続けるかどうかは、私にとってとても重要だったのです。
その理由は、実際に最初にこども達とディベロップした時、前編にも記述したように、声の大きな子や、その場をコントロールしようとする子の力に半ば影響される形でディベロップされていたことが、私にモヤつきをもたらしていたからです。
もしかすると、このモヤつきは、前編で記述した「対話における合意形成」に関するモヤつき以外にも「遊び続けられていないこと」にも関係しているのではないだろうか、と。
そして、冒頭にも書いた釈然としないディベロップ時の違和感もここから始まっているのかも!?という仮説が生まれてきたのです。
せっかくのこの機会、そうした違和感を無理にのみこもうとせずに、探求してみることにしたのです。
その探求には私の相談相手が必要になりました。
「創るプロ」に相談してつくるを体験してみた
私の違和感に付き合ってもらえそうな方には心当たりがありました。建築家の遠藤幹子さんです。
遠藤さんとの出会いは2019年の名古屋、あいちトリエンナーレ。
遠藤さんと日比野克彦さんが手掛けられた、段ボールの公園のような展示、『アート・プレイグラウンド あそぶ PLAY』の現場でした。
その展示は、段ボールで創られた大きな滑り台や、魚釣り場、キッチンなどなど、段ボールの世界が広がり、参加者のこどもや大人は、その空間の中であそぶための道具やおもちゃを楽しそうに創っていました。
遠藤さんは、道具だけではなく、その段ボール等材料のもつポテンシャルを楽しく教えることも得意技のひとつなのです。
身近にあるものを材料にし、それらを工夫して道具を創ってみる
遠藤さんには、「身近にあるものを材料にし、それを工夫して創ったものでスポーツ共創がしたい!」とオーダーをし、ワークショップをお願いしました。
対面で企画していたスポーツ共創の時間が、オンラインとオフラインのハイブリットに変更になることが決まってからのワークショップだったので、「オンライン仕様で」とお願いしたのでした。
オンラインでどの家庭にもあるもの。
遠藤さんから提案されたものは、思いもよらなかった「新聞紙」という素材でした。新聞紙を使って、どのようにスポーツ共創の道具たらしめるのか。実際に技能面からアプローチしていただきました。
テーマは「犬」。
まずは、「かぶりものを作る」練習をします。
新聞紙を頭に乗せて、頭の形に合わせながらセロハンテープを使い、帽子のような形を作ります。
遠藤さんはあっという間にサクサクと、簡単に美しい形の帽子を創って私達に見せてくれます。
私もこどもと一緒に親子で遠藤さんを真似て新聞紙を頭に乗せました。
・・・難しい。形にならない。
時間がかかる。
河童の皿にしか見えない。
身近にある新聞紙に悪戦苦闘させられる私達。
次の練習は、「犬」の写真をじっくり見て特徴を捕まえ、その特徴の部位を作ってみること。
例えば、柴犬なら鼻のあたりはこうだなとか、チワワは耳がこうだな、とか、それぞれ特徴のある部位にフォーカスします。あら不思議、遠藤さんは耳だけで、もはやチワワ以外には見えない犬人のようになっています。
一方私は・・・犬であることを誰かに気づいてもらえるために新聞と格闘しました。
「新聞紙」の使い方に出会って気づいたこと
たかが新聞紙、されど新聞紙、こんなにも新聞紙のポテンシャルを見せつけられた日はなかった。
新聞紙は、縦方向(読む方向)に破るととても綺麗にピリピリと破れます。短冊のようなものは簡単にまっすぐに作りやすいのですが、横方向に破るとぜんぜんうまくいかないのです。
破った新聞紙は、破らないようにやさしくしごいてやると、クルンとカールまでするのです。
紙の特性を知ることで、そこではじめて工夫ができる。その工夫によって道具は創り出される。
これは、私の思う『開発・つくる』にとても近いと思いました。
私の思う「開発」とはなにか
「開発」とはなにかについて考えました。
ありふれた道具であるはずの新聞紙を、広げて敷く等のありふれた使いかたをするのではなく、ひたすらおりたたんで積み上げ、だれが一番高くできるかといった、新聞紙らしからぬ使われ方を目にできた時、「開発する」と私は感じるのではないだろうか。(※これは実際にこども達から出された案です)
その為には、新聞紙のポテンシャルを知る必要がある。
そうでなければ誰も思いつかなかった姿は現れないのではないだろうか。
うーん。最初の私の違和感は気のせいで、やはり、元々与えられし役割を少し違えてみることが「この用具の新しい使い方」という意味で「開発する」「つくる」と言えるのだろうか・・・わからなくなってきた。
想像してみる。
身長より高く積み上げた新聞紙が会場にいくつも立ち上がったら・・・?
「安全性」「ゲーム性」「やって楽しいだけでなく見てもたのしい」をすべて兼ね備えたフィジカルのダイナミックさを感じる競技になると思う!
フィジカルなダイナミックさもいるのかもしれない。(と気づいてみる)
一生懸命、私の違和感と仮説の差分について考えてみる。きっとわずかな差でしかない。
でも、やっぱり差はあると思う。
私の思う『開発する』ために大事な要素は、素材や道具のポテンシャルをまず、知り尽くすことなんじゃないか。知ったつもりになってやることと、知り尽くそうとしてみることの差分にあるんじゃないかと。
なぜなら、素材や道具のポテンシャルを知ると、おのずと素材や道具と遊びたくなってしまうのではないかと思ったのです。
すでに素材や道具のポテンシャルを知る時点でもう「ディベロップレイ」しはじめている、かもしれないのです。
こども達がつくってみたらどうなったのか
新聞紙を丸めると剣になったり、折りたたんでいくと結構な高さになる、そんな遊びをZOOMという小窓の中で複数人と一緒にどうやったら遊べるかをこども達は考えながらおこないました。
遠藤さんから新聞紙のポテンシャルを教わって、こども達は新聞紙と仲良しになっているように見えました。
そしてズームの小窓という環境と、新聞紙という道具を活かし、遊びの連続性の先に、1つ、2つと競技ができあがっていったのです。
実は1回目のフィジカルでおこなった「未来の犬てつの運動会」の時も、コピー用紙や靴下といった身近にあるものを材料にディベロップしましたが、なかなかスムーズに「開発する」「遊んでいる」と思える競技はできあがりませんでした。
それを探求するべく遠藤さんのワークショップを受けてからは、こども達はひっかかりなくあそび続け、そのまま共に創られていく感覚を味ったように思うのです。
今回、道具となりうる材料を吟味することを学び、素材を知ることが「技能の獲得」にもつながってゆくことを体験しました。「つくる」ということは、やみくもに自由にやっていいと言われたところで何をすれば良いのかよく分からなくて、ある水準の「技能を獲得」し「素材、道具、環境がもつ特性やルールなどの制約を知っている」からうまれやすいのだと思い至りました。
なぜ私が哲学対話を通して「スポーツ共創」をしたいと考えたのか
私は常々こうした自由と制約の緊張関係については強い関心をもっています。
この関心がゆえに哲学対話を続けていると言ってもいいくらいです。
そんな私はこの度、スポーツ共創と哲学対話という二つの異なる活動が同じ目標に向かっているように思えました。
「つくる」ことと同じように、哲学対話においてもまた「制約」がある方が自由な思考を促すことができるというふうに考えられています。その制約はルールのようなものとして認識されてもいます。
スポーツ共創においても制約やルールの存在は、重要度の高い条件といえるのではないでしょうか。
これは、前編で書いたこととも密にリンクすることで、
前編では包摂と排除という軸でお話しましたが、それぞれ自由と制約という概念と密接に関わっています。
改めて、この自由と制約は私が最も大切にしている探求のテーマだったので私はここにひっかかりを覚えたのだと理解しました。だから、探求のひとつのカタチとして「未来の運動会」を実践したのだと思います。
2019年、遠藤さんとあいちトリエンナーレでお会いした時一緒に写真を撮ってもらいました。
遠藤さんに「私は段ボールの未来の運動会をやりたい!」とお話をしたかったからでした。
その言葉は思いつきではなく、私の中にあった探求の種であったのだと今はっきりと言うことができます。
その種は、いま芽吹き始めました。
言の葉が生い茂り花が咲くように、私は不思議な灰を手に、さらなる活動を続けていきたいと思います。
いますぐスポーツ共創をやってみよう!
安本志帆
こども哲学おとな哲学アーダコーダ、カフェフィロ、未来の体育を構想するプロジェクトの人としても様々な哲学対話の活動に参画している。
CLAFA対話のアトリエ、高浜市やきものの里かわら美術館、全国の小中高大学で外部講師として哲学対話のファシリテーターを務めるほか、異業種間の哲学対話の企画運営や当事者研究、哲学対話の個人セッション(哲学相談)もおこなう。教育学、臨床哲学、現象学を通し、哲学対話実践における自らの問いを探求し続けている。
共著書に『こどもと大人のてつがくじかん』( LAND SCHAFT)